歴史と常識

歴史を振り返ってみると縄文時代は数万年間、弥生時代は数千年間、平安は400年間、江戸は200年間、明治維新からは100年間、ITが家庭に普及してから約十年。
(ITに普及に関してはとりあえず1995年くらいとしておきます。)
時代の流れは速いし常識や価値観なんかも簡単にひっくり返るわけだ。
例えば文字に関しては、西暦600年くらいまでは不明、それから漢字、かな文字は遣唐使廃止後にできたが、実際に一般的に使われるのは明治維新後。
当たり前のように漢字かな混じり文字を書いてはいるが、昭和初期にはカタカナとか右から左形式だったりする。


しかしこんなに急激に時代は変わっていくのに常識は変わらないと思っていないだろうか。
これは未来予測に関して顕著に現れているような気がする。
科学技術が発展するためには一応平和で治安がそこそこいいのが前提である。
昔読んだ本(詳細は忘れた)に未来の予測物語があった。要約すると。

  • 一度はいた下着は二度とはかない。(主人公は男)
  • 家の中にクリーニングシステムで毎日クリーニング(ダストシュート?)
  • 学校(確か小中くらい)で乗馬の授業とか難しいのとか。
  • 時計型通信機?
  • 壁紙テレビ (サラウンドシステムはなかった。)

こんな感じだったかな。とりあえず携帯電話の発明は予測できていない。
一般的な未来予測から次のことに気づく。

  1. 直接対話するという常識。(メールとかの予測がない。)
  2. 身近な便利。クリーニングシステムとか(今の技術でも十分可能、つまり生活水準アップ)
  3. よい方向に必ず進む。(教育とか)
  4. 問題の解決(渋滞とか治安とか車の安全性とか)

1は今の価値観が変わらないという考えではないだろうか。今は気軽なメール、その前は電話、さらに電話が普及する前は直接話すのがよいとされた。だからテレビ電話と予測する。
2は生活水準が上昇して欲しいという願いだと思われる。家電ネットワークやセキュリティシステムは予想されない。
セキュリティーはせいぜい声紋、指紋認証ぐらいでその時代の価値観を反映している。
3,4は失敗しないという考え、物事は必ずよくなるという願望にとらわれている。
問題解決を科学技術の進歩に頼ろうという考え。問題解決を後回しにしている。


別にこれらの考えを否定するわけではないけれども、この先を考えるのにこういうことをよく考えるのは有益ではないだろうか。
つまり自分の人生などはこの先、失敗もあるし、価値観や常識も変化するし、身近な問題は後回しになるのだろう。身近な問題を解決することが先決なのかもしれない。